2011年03月13日
被災日記その1(東北地方太平洋沖地震)
正直いつまで家にいられるか分からないし、ネットに繋がるのか、電気が通るのか分かりません。
でも、何かしら意味があるかもしれないし、ないとしても自己満足には繋がるので、日記を書こうと思います。
亡くなられている方、いまだ音信普通な方が多い中、不謹慎かとは思いますが、好奇心とは違った意味で興味をお持ちの方も多いでしょうし。
起きた事、自分がやった事をただただ書き連ねるだけですので、情報としては特に価値があるとは思えません。
体験談の一つとでもお考えくださいませ。
11日14時46分、普通に福島県郡山市のオフィスで仕事してました。(比較的被害は小さい地域です)
勤め先ではプログラマーをやっています。
パーテーションに囲まれた中で各製品(プレイヤーとか)とPCを繋いで仕事してました。
揺れ始めて30秒くらいは、最近よくあったちと大きめの地震かなぁ、くらいに思ってました。
でもさすがに1分過ぎて揺れが大きくなってきたので、これはやばいと思ってPCとモニターを倒して、パーテーションに捕まってました。
下に隠れると、数十キロの機材の下敷きになって死んじゃいそうなので。
3分くらい揺れてたそうですけど、正直それよりは短くも長くも感じたかなぁ。
揺れてる間、これは午後は仕事にならないな、と思ってました。
揺れが収まった後はコンセントだけ抜いて外に飛び出ようとしました。
ふと外を見ると、とんでもない吹雪が。
あれ、地震じゃなくて噴火か?と思いましたが、それは懸念に過ぎなかったようです。
ん、もしかすると噴火のがまだマシだったのかな?
なにはともあれ、とにかく外に出ました。
会社ビルの向かいのマンションから飛び出てきた女性のパニックぶりを見て、ああ、これはえらい事になったな、と。
揺れが落ち着いた後は会社の電源シャットダウンと、落ちたら危ない機器だけを片付けてました。
そうこうしてると隣の食堂の親父さんが皿が全部割れて、もう商売にならないと泣き笑っていたのが印象的でしたが、こっち側もすぐ現実になりました。
その後、一人で暮らしてる母のマンションに30分歩いて向かい、父と合流。
父は会社をやっていて、私は勤め先以外にその一つの部門を取りまとめる仕事もしていたので、そっちを受け持つ事を伝えて解散。
この時点で17時くらいでしたが、一旦自宅に戻ると駐車場のいたるところが陥没、壁の一部も破損。
建物のすぐ脇が私の駐車スペースなのが少し気になりますが、この際、多少傷つく程度は問題ないでしょう。
家の中はもう駄目でした。
幸い下ろしていない皮靴があったので、それを履いて行動しています。
ちょっとアメリカン。
その後、担当の店舗の一軒に徒歩で入って、自分より年上の従業員を励ます不思議。
生まれが少し違うだけで、同じ人間だし、経験も違う筈なんですけれども。
泣いてる人がいるのに、上の人間が全てを放棄して寝てるわけにもいかないなぁ、と渋々働く事を決意。
そのまま徒歩で駅前の事務所へ。
道中、飲みに出るのに歩きなれた道が、人でいっぱいでした。
こんなにいるなら、日頃から飲みに出て地域経済に貢献しなよ、って思ったのは内緒です。
そうはいっても、その飲む為の店も、甚大な被害を被ってしまっていますが。
次にここに飲みにこれるのは、というかアルコールを入れてよくなるのはいつになるだろう、となんとなく思ってました。
事務所では既に直属の部下がいましたので、現状の報告を受けて、一先ず従業員もお客様も負傷者がいない事に安心。
宮城県の利府にも店舗があるのですが、そちらだけは音信普通とのことで、たまたま公休日の利府在住の従業員が向かってくれてるとのこと。
その後、店舗内部はもう駄目でしたが、人は無事なことが確認できて一安心。
それから、売上金、釣り銭の回収や各店舗の責任者が集まってきたので、12日からの営業について討議。
11日22時の段階では情報が少なすぎたし、何よりもまだ家族、親族と連絡していない者、家の様子を見ていない者が多かったので、一先ず解散して帰す事に。
お金だけ預かって、一時帰宅し、今度はコンビニ巡りへ。
母親の所は電気も水もその時点では大丈夫だったので、なぜか売れ残っていた冷凍食品を買い込んで母親のマンションへ。
とりあえず一週間は食いつなげるかなぁ、って量を冷蔵庫に突っ込ませて、軽く話した頃には24時。
売上金を置いたまま、家を離れるわけにもいかないので、私はマンションに戻って就寝。
10階に住んでいるせいか、特別揺れる気がする中、飛行機だって揺れて落ちたら死ぬし、心配しても仕方ないな、と爆睡。(そうは言っても寝付くのに時間かかりましたが)
先月くらいから深夜に帰宅し、酒を飲んで4、5時間だけ寝るような生活をしていたせいか、眠かったのでしょう。
アラームが鳴ってもまだ寝てました(笑)
まあ土曜日でしたし、地震がなかったらもっと寝てたかも。
起きると、スーツを引っ張り出して、ネクタイを締めてまずは母親の所へ。
眠れなかったらしく、一緒にいてあげられればとも思ったのですが、そうもいかない事情があります。
親不孝、人間の屑と言われても仕方ないと思いますが、家族一人よりも数百人の従業員とその家族のことを優先したいです。
少なくとも他と比べれば安全かつ平和な場所で待機できていますし、物資も十分ですし。
顔を見せて、一日の過ごし方をレクチャーした後、駅前の事務所へ。
9時くらいでしたが、一番乗りでした。
その後、人が集まってくると、本社近くの店舗だけ空けるよう社長(父)が指示を出していたようなので、それに従って移動。
店舗の状況確認を済ませ、市内のほかの店舗から物資類を集めるよう指示を出した後、本社に向かって状況確認。
ガソリンスタンドを経営している関係で、そっち側の部隊は戦争状態でした。
つられる形で事務員さんも出勤しており、地震なんてあったっけ?的な日常の光景でした。
本社を出て、近くに同僚(男)の家があった事を思い出し、近くの飲食店を開けることを伝えようと訪問。
見慣れた車が二台あり、その一つが同僚(男)、もう一つが同僚(女)である事に首を傾げつつ、インターフォン。
中に入れてくれた同僚(男)と無事を喜びつつも、玄関より先には進ませてくれない。
そして奥ではシャワーの音。
……うん。
まあ、こういう状況だしね。
映画とかだとベタな展開だし。
大人な私はそれ以上は突っ込まず、突っ込むのは彼に任せてお店のほうに戻りました。
その後、次々に出勤してくれる市内各店舗の社員達。
バイトの子たちに比べれば百戦錬磨、自慢の精鋭達が見る見るうちにお店を建て直し、パンを焼き、おにぎりを握り、パスタを茹で、サラダを作り、ピラフを炒め。
泣きながら仕事をしていた女の子達もお客様には笑顔を振りまき、いつも通り、いやいつも以上のクオリティで営業できました。
本当は申請が必要なのですが、こういう状況だしと店前にテーブルを並べ、おにぎりやパンを販売し、協賛で貰っていたミニ缶の飲料を無料で配布。
想像を5倍くらい上回る売り上げに、却って切なくなりました。
不思議と、お母さんと小さいお子さんの二人連れが多く、そんな組み合わせが宛てもなく歩いている姿に、少々胸を打たれたりもしました。
他にも寝ずに仕事をしていた浄水場関係の方、水道関係の方、その他工事関係の方々。
笑顔でおにぎりを大量に買い込んでいく姿を見て、やることある人間は強いな、とも。
自分達も含めて、一種の現実逃避かもしれないけれど。
夕方くらいまでは普通に営業し、一旦母親の様子を見るために母親のマンションへ。
呆然としている母親の目の前には例の原発の画像が。
急いでお店に戻り、いわきに実家がある子を帰すよう指示。
しかしこれは私が悪かったのでしょう。
幹部を残して、残り一斉に帰せば良かったのに、その子だけを帰すよう指示してしまったことで、その子が大きな不安を感じることに。
慰めたところで意味なんてありません。
ただただ、もう少しやり方があったと反省していますし、その反省を今日にも生かす機会がありそうなのが怖いです。
まだ19時でしたので、メルトダウンしたのかしてないのかの判断がつかない以上、最悪のケースを想定して指示。
13日はやるとしても夜の営業のみと伝えて鍵も預かって解散。
お店は幹部以外帰宅したのを確認して、本社へ。
疲れ果てた石油関係のスタッフ、それと昔馴染みの出入りの業者の社長さんがいました。
少し話した後、社長である父親と簡単な打ち合わせ。
ナンバー2の人間が埼玉、ナンバー3の人間がいわきにいる関係で、取り仕切れる人間は非常勤役員の私も含めて2人だけ。
今後も手分けしていく方向で話をつけて別れました。
また売上金を抱えていたので、自宅マンションへ。
PC2台のうち、1台が動くことを確認し、駄目もとで契約しているプロバイダ全てに接続トライ。
何度試しても駄目だったので、そのまま放置して片づけを始めて、疲れた頃に戻ると繋がってました。
基本、ネットに繋がったPCの前に17時間くらいはいたような駄目人間です。
すごく救われた気分になりました。
そうこうしていると、政府からメルトダウンはしていないとの発表。
嘘じゃないの、と思いつつ信じたくなりました。
それから情報を集めつつ、TVを見ていると、自分がすごく恵まれていることに気づきました。
「無事だったーw」とかチャットしてる自分が不謹慎だとは思いますが、変にノリを変えたくもないですし。
被災していない方で、復興に従事していないような方は、むしろ普通に生活しててほしいとも思いました。
心配されても無駄だし、意味ないし。
心配するくらいなら、こっちに回線まわせとも思いますし。
(正直本音ですが、嬉しい事でもあるのです。謝罪とともに感謝の御礼を)
自分にとっては対岸の火事でしかなかった震災。
実体験し、地震はともかく原発のメルトダウンの懸念。
正直、先は見えないですし、何をすればいいのかわかりません。
まして、自分の指示で動いてくれる人間が何十人もいます。
こんな自分を取締役と呼び、信頼し、ついてきてくれる人間達がどうすればマシに生きていけるのか。
仕事をさせるのが幸せなのか、家にいさせるべきなのではないか。
今も葛藤はあります。
それでも彼らは出勤してくれます。
恐らく、今日もそうでしょう。
企業としてやるべきことがある限りはやる、と。
であれば、こうしようああしよう、そういう事でみんなの行動に指標が生まれ、安心してくれることを願うほかありません。
なにより、震災以降の人生があるのです。
復興したとき、より厳しい状況下で、みんなが暮らしていけるような下地を作り続けなければいけません。
一週間以内にまた大きな地震があって、立て直したのが無駄になるかもしれない。
今日にもやっぱりメルトダウンしましたーで退去させられるかもしれない。
最悪のことは常に想定して行動しなければいけません。
かといって最悪の状況下で、さらに最悪の展開だけを考えては、その先の展望が開けません。
その先の展望が開けられる可能性がある立場・環境である以上、仕事に従事するのは必要なことだと思っています。
一人でも多くの方のお腹を満たせるように、うちの店にいる間だけでも震災前の日常を味わえるように。
なに、一年後には酒を飲みながら震災の日を迎えられるようになります。
それまで出来る事をやり続けようと思っています。
この日記はあくまで私の主観のみで書き連ねています。
起き抜けですし、比較的冷静なつもりですが、客観視していただくと、恐らくそうでもないと思います。
被災した中では恵まれた環境にいる一被災者の、今現在の感想とでもお考えくださいますよう、重ねてお願い申し上げます。
でも、何かしら意味があるかもしれないし、ないとしても自己満足には繋がるので、日記を書こうと思います。
亡くなられている方、いまだ音信普通な方が多い中、不謹慎かとは思いますが、好奇心とは違った意味で興味をお持ちの方も多いでしょうし。
起きた事、自分がやった事をただただ書き連ねるだけですので、情報としては特に価値があるとは思えません。
体験談の一つとでもお考えくださいませ。
11日14時46分、普通に福島県郡山市のオフィスで仕事してました。(比較的被害は小さい地域です)
勤め先ではプログラマーをやっています。
パーテーションに囲まれた中で各製品(プレイヤーとか)とPCを繋いで仕事してました。
揺れ始めて30秒くらいは、最近よくあったちと大きめの地震かなぁ、くらいに思ってました。
でもさすがに1分過ぎて揺れが大きくなってきたので、これはやばいと思ってPCとモニターを倒して、パーテーションに捕まってました。
下に隠れると、数十キロの機材の下敷きになって死んじゃいそうなので。
3分くらい揺れてたそうですけど、正直それよりは短くも長くも感じたかなぁ。
揺れてる間、これは午後は仕事にならないな、と思ってました。
揺れが収まった後はコンセントだけ抜いて外に飛び出ようとしました。
ふと外を見ると、とんでもない吹雪が。
あれ、地震じゃなくて噴火か?と思いましたが、それは懸念に過ぎなかったようです。
ん、もしかすると噴火のがまだマシだったのかな?
なにはともあれ、とにかく外に出ました。
会社ビルの向かいのマンションから飛び出てきた女性のパニックぶりを見て、ああ、これはえらい事になったな、と。
揺れが落ち着いた後は会社の電源シャットダウンと、落ちたら危ない機器だけを片付けてました。
そうこうしてると隣の食堂の親父さんが皿が全部割れて、もう商売にならないと泣き笑っていたのが印象的でしたが、こっち側もすぐ現実になりました。
その後、一人で暮らしてる母のマンションに30分歩いて向かい、父と合流。
父は会社をやっていて、私は勤め先以外にその一つの部門を取りまとめる仕事もしていたので、そっちを受け持つ事を伝えて解散。
この時点で17時くらいでしたが、一旦自宅に戻ると駐車場のいたるところが陥没、壁の一部も破損。
建物のすぐ脇が私の駐車スペースなのが少し気になりますが、この際、多少傷つく程度は問題ないでしょう。
家の中はもう駄目でした。
幸い下ろしていない皮靴があったので、それを履いて行動しています。
ちょっとアメリカン。
その後、担当の店舗の一軒に徒歩で入って、自分より年上の従業員を励ます不思議。
生まれが少し違うだけで、同じ人間だし、経験も違う筈なんですけれども。
泣いてる人がいるのに、上の人間が全てを放棄して寝てるわけにもいかないなぁ、と渋々働く事を決意。
そのまま徒歩で駅前の事務所へ。
道中、飲みに出るのに歩きなれた道が、人でいっぱいでした。
こんなにいるなら、日頃から飲みに出て地域経済に貢献しなよ、って思ったのは内緒です。
そうはいっても、その飲む為の店も、甚大な被害を被ってしまっていますが。
次にここに飲みにこれるのは、というかアルコールを入れてよくなるのはいつになるだろう、となんとなく思ってました。
事務所では既に直属の部下がいましたので、現状の報告を受けて、一先ず従業員もお客様も負傷者がいない事に安心。
宮城県の利府にも店舗があるのですが、そちらだけは音信普通とのことで、たまたま公休日の利府在住の従業員が向かってくれてるとのこと。
その後、店舗内部はもう駄目でしたが、人は無事なことが確認できて一安心。
それから、売上金、釣り銭の回収や各店舗の責任者が集まってきたので、12日からの営業について討議。
11日22時の段階では情報が少なすぎたし、何よりもまだ家族、親族と連絡していない者、家の様子を見ていない者が多かったので、一先ず解散して帰す事に。
お金だけ預かって、一時帰宅し、今度はコンビニ巡りへ。
母親の所は電気も水もその時点では大丈夫だったので、なぜか売れ残っていた冷凍食品を買い込んで母親のマンションへ。
とりあえず一週間は食いつなげるかなぁ、って量を冷蔵庫に突っ込ませて、軽く話した頃には24時。
売上金を置いたまま、家を離れるわけにもいかないので、私はマンションに戻って就寝。
10階に住んでいるせいか、特別揺れる気がする中、飛行機だって揺れて落ちたら死ぬし、心配しても仕方ないな、と爆睡。(そうは言っても寝付くのに時間かかりましたが)
先月くらいから深夜に帰宅し、酒を飲んで4、5時間だけ寝るような生活をしていたせいか、眠かったのでしょう。
アラームが鳴ってもまだ寝てました(笑)
まあ土曜日でしたし、地震がなかったらもっと寝てたかも。
起きると、スーツを引っ張り出して、ネクタイを締めてまずは母親の所へ。
眠れなかったらしく、一緒にいてあげられればとも思ったのですが、そうもいかない事情があります。
親不孝、人間の屑と言われても仕方ないと思いますが、家族一人よりも数百人の従業員とその家族のことを優先したいです。
少なくとも他と比べれば安全かつ平和な場所で待機できていますし、物資も十分ですし。
顔を見せて、一日の過ごし方をレクチャーした後、駅前の事務所へ。
9時くらいでしたが、一番乗りでした。
その後、人が集まってくると、本社近くの店舗だけ空けるよう社長(父)が指示を出していたようなので、それに従って移動。
店舗の状況確認を済ませ、市内のほかの店舗から物資類を集めるよう指示を出した後、本社に向かって状況確認。
ガソリンスタンドを経営している関係で、そっち側の部隊は戦争状態でした。
つられる形で事務員さんも出勤しており、地震なんてあったっけ?的な日常の光景でした。
本社を出て、近くに同僚(男)の家があった事を思い出し、近くの飲食店を開けることを伝えようと訪問。
見慣れた車が二台あり、その一つが同僚(男)、もう一つが同僚(女)である事に首を傾げつつ、インターフォン。
中に入れてくれた同僚(男)と無事を喜びつつも、玄関より先には進ませてくれない。
そして奥ではシャワーの音。
……うん。
まあ、こういう状況だしね。
映画とかだとベタな展開だし。
大人な私はそれ以上は突っ込まず、突っ込むのは彼に任せてお店のほうに戻りました。
その後、次々に出勤してくれる市内各店舗の社員達。
バイトの子たちに比べれば百戦錬磨、自慢の精鋭達が見る見るうちにお店を建て直し、パンを焼き、おにぎりを握り、パスタを茹で、サラダを作り、ピラフを炒め。
泣きながら仕事をしていた女の子達もお客様には笑顔を振りまき、いつも通り、いやいつも以上のクオリティで営業できました。
本当は申請が必要なのですが、こういう状況だしと店前にテーブルを並べ、おにぎりやパンを販売し、協賛で貰っていたミニ缶の飲料を無料で配布。
想像を5倍くらい上回る売り上げに、却って切なくなりました。
不思議と、お母さんと小さいお子さんの二人連れが多く、そんな組み合わせが宛てもなく歩いている姿に、少々胸を打たれたりもしました。
他にも寝ずに仕事をしていた浄水場関係の方、水道関係の方、その他工事関係の方々。
笑顔でおにぎりを大量に買い込んでいく姿を見て、やることある人間は強いな、とも。
自分達も含めて、一種の現実逃避かもしれないけれど。
夕方くらいまでは普通に営業し、一旦母親の様子を見るために母親のマンションへ。
呆然としている母親の目の前には例の原発の画像が。
急いでお店に戻り、いわきに実家がある子を帰すよう指示。
しかしこれは私が悪かったのでしょう。
幹部を残して、残り一斉に帰せば良かったのに、その子だけを帰すよう指示してしまったことで、その子が大きな不安を感じることに。
慰めたところで意味なんてありません。
ただただ、もう少しやり方があったと反省していますし、その反省を今日にも生かす機会がありそうなのが怖いです。
まだ19時でしたので、メルトダウンしたのかしてないのかの判断がつかない以上、最悪のケースを想定して指示。
13日はやるとしても夜の営業のみと伝えて鍵も預かって解散。
お店は幹部以外帰宅したのを確認して、本社へ。
疲れ果てた石油関係のスタッフ、それと昔馴染みの出入りの業者の社長さんがいました。
少し話した後、社長である父親と簡単な打ち合わせ。
ナンバー2の人間が埼玉、ナンバー3の人間がいわきにいる関係で、取り仕切れる人間は非常勤役員の私も含めて2人だけ。
今後も手分けしていく方向で話をつけて別れました。
また売上金を抱えていたので、自宅マンションへ。
PC2台のうち、1台が動くことを確認し、駄目もとで契約しているプロバイダ全てに接続トライ。
何度試しても駄目だったので、そのまま放置して片づけを始めて、疲れた頃に戻ると繋がってました。
基本、ネットに繋がったPCの前に17時間くらいはいたような駄目人間です。
すごく救われた気分になりました。
そうこうしていると、政府からメルトダウンはしていないとの発表。
嘘じゃないの、と思いつつ信じたくなりました。
それから情報を集めつつ、TVを見ていると、自分がすごく恵まれていることに気づきました。
「無事だったーw」とかチャットしてる自分が不謹慎だとは思いますが、変にノリを変えたくもないですし。
被災していない方で、復興に従事していないような方は、むしろ普通に生活しててほしいとも思いました。
心配されても無駄だし、意味ないし。
心配するくらいなら、こっちに回線まわせとも思いますし。
(正直本音ですが、嬉しい事でもあるのです。謝罪とともに感謝の御礼を)
自分にとっては対岸の火事でしかなかった震災。
実体験し、地震はともかく原発のメルトダウンの懸念。
正直、先は見えないですし、何をすればいいのかわかりません。
まして、自分の指示で動いてくれる人間が何十人もいます。
こんな自分を取締役と呼び、信頼し、ついてきてくれる人間達がどうすればマシに生きていけるのか。
仕事をさせるのが幸せなのか、家にいさせるべきなのではないか。
今も葛藤はあります。
それでも彼らは出勤してくれます。
恐らく、今日もそうでしょう。
企業としてやるべきことがある限りはやる、と。
であれば、こうしようああしよう、そういう事でみんなの行動に指標が生まれ、安心してくれることを願うほかありません。
なにより、震災以降の人生があるのです。
復興したとき、より厳しい状況下で、みんなが暮らしていけるような下地を作り続けなければいけません。
一週間以内にまた大きな地震があって、立て直したのが無駄になるかもしれない。
今日にもやっぱりメルトダウンしましたーで退去させられるかもしれない。
最悪のことは常に想定して行動しなければいけません。
かといって最悪の状況下で、さらに最悪の展開だけを考えては、その先の展望が開けません。
その先の展望が開けられる可能性がある立場・環境である以上、仕事に従事するのは必要なことだと思っています。
一人でも多くの方のお腹を満たせるように、うちの店にいる間だけでも震災前の日常を味わえるように。
なに、一年後には酒を飲みながら震災の日を迎えられるようになります。
それまで出来る事をやり続けようと思っています。
この日記はあくまで私の主観のみで書き連ねています。
起き抜けですし、比較的冷静なつもりですが、客観視していただくと、恐らくそうでもないと思います。
被災した中では恵まれた環境にいる一被災者の、今現在の感想とでもお考えくださいますよう、重ねてお願い申し上げます。