2013年03月10日
人間の価値?
先日、とあるところで飲んでいてこんな話に。
「人間の価値ってどこで決まるんですかね?」
そんなことを今日風呂に入っていてふと思い出したので、頭の運動がてら少し考えてみました。
まず人間の価値、というのは特別なものではないと考えます。
この際、物の価値と置き換えればとてつもなくシンプルなように思いました。
例えば骨董品があるとします。
その価値があるかないか、誰が決めますか?
専門家が客観的な価値を決めると思います。
でも如何に専門家が価値を認めたとしても、ガラクタにしか見えないという人も多いと思います。
人によって1億円の価値だったり、ゴミと等しい価値だったりするわけです。
人間も一緒だと思います。
例えばとても仕事の能力がある方がいるとします。
その方は業界ではとてつもない能力を認められ、高い価値(報酬)を得ているとします。
が、関係ない業界の人からすれば、その人は道行く他人でしかありません。
「俺、すげーんだぜ!」に対する反応が「一生ついていきます!」だったり、「はぁ……」だったりするわけです。
こんな当たり前なくだらない結論に至ったわけですが、人間の価値とか言い出すと出てくる話題があります。
「わたし、生きる価値あるのかな?」
私も聞かれたことがありますが、わりとこんな話題に巻き込まれた経験がある方はいらっしゃるのではないでしょうか。
自分の生きている世界、環境、集団の中で才能なり存在感があれば、価値がある!と思えばいいとも思います。
或いは高い給料をもらってるから、高い職位についているから、いい成績をおさめているから、を自分の価値と考えてもいいでしょう。
でまあ、そんな風に考えられる人は、「生きる価値あるかな?」とか思ったりしません。
その場合、上記の価値観からすると、自分で自分の価値を決める、というのは極めて難しい行為だと思います。
価値がない人間というのがいるのだろうか、というと、何らかの分野で大なり小なりの価値をお持ちだと思うんです。
それで「いや、生きる価値あるよ」というのはとても簡単な話なのですが、自分で能力不足だ、評価されない、容姿が悪いとか思いこまれるケースもあるでしょう。
生きる価値がある、というのを伝えるのはとても難しいと思いました。
じゃあなんだろう、何か別な表現はないだろうか、と考えた際にふと浮かんだのが「必要性」でした。
その人が生きている必要性はあるのではないだろうか、と思うのです。
仕事にしても、家庭生活にしても、学校生活にしても、「その人」という存在がいるからこそ成り立つ部分というのがあると思うのです。
仕事であれば、誰でも出来る仕事とか言い出す人がいるけど、やってくれる人は必要なわけで。
家族から色々言われてたりしても、言う相手というのは必要なわけで。
学校にしても、自分の席を埋める人というのは必要なわけで。
ゲームをする人、食事をする人というのは必要なわけで。
じゃあ肝心の「必要の基準」はなんだろうか、と考えた際、とてもシンプルな結論に至りました。
「その人がいなくなって少しでも困る人がいるならば、その人は必要である」
或いは、次の表現でもいいでしょう。
「その人がいなくなって少しでも悲しむ人がいるならば、その人は必要である」
色々思う人はいるでしょうけど、恐らく大多数の人は必要に分類されると思います。
その人が有能だと思い込んでいようが、無能と思い込んでいようが、社長だろうが、無職だろうが、善人はもちろん、罪人でさえも。
それぞれ必要と思う人の大小はあるでしょうけど、そこまで考えるんだったら、それこそ必要と思ってくれる人を増やす努力をすればいいんじゃないですかね。
そんな風に、努力の方向性を決める判断基準程度にはなるんじゃないかと思いました。
なんか特に面白くない話でした。
たまに更新しないとね、というだけの動機だったので、よしとしましょう。
~拍手レス~
>素敵すぎる三連休じゃないですか!一昨年の年末年始休暇がギックリ腰で終わった時の事を思い出しました・・・慣れない連休とるとそんなもんですよ・・・Orz by 助平
ご無沙汰してます! そして返信遅くなってすみません。 連休を取ると体調を崩すのは鉄則ですね(笑)
「人間の価値ってどこで決まるんですかね?」
そんなことを今日風呂に入っていてふと思い出したので、頭の運動がてら少し考えてみました。
まず人間の価値、というのは特別なものではないと考えます。
この際、物の価値と置き換えればとてつもなくシンプルなように思いました。
例えば骨董品があるとします。
その価値があるかないか、誰が決めますか?
専門家が客観的な価値を決めると思います。
でも如何に専門家が価値を認めたとしても、ガラクタにしか見えないという人も多いと思います。
人によって1億円の価値だったり、ゴミと等しい価値だったりするわけです。
人間も一緒だと思います。
例えばとても仕事の能力がある方がいるとします。
その方は業界ではとてつもない能力を認められ、高い価値(報酬)を得ているとします。
が、関係ない業界の人からすれば、その人は道行く他人でしかありません。
「俺、すげーんだぜ!」に対する反応が「一生ついていきます!」だったり、「はぁ……」だったりするわけです。
こんな当たり前なくだらない結論に至ったわけですが、人間の価値とか言い出すと出てくる話題があります。
「わたし、生きる価値あるのかな?」
私も聞かれたことがありますが、わりとこんな話題に巻き込まれた経験がある方はいらっしゃるのではないでしょうか。
自分の生きている世界、環境、集団の中で才能なり存在感があれば、価値がある!と思えばいいとも思います。
或いは高い給料をもらってるから、高い職位についているから、いい成績をおさめているから、を自分の価値と考えてもいいでしょう。
でまあ、そんな風に考えられる人は、「生きる価値あるかな?」とか思ったりしません。
その場合、上記の価値観からすると、自分で自分の価値を決める、というのは極めて難しい行為だと思います。
価値がない人間というのがいるのだろうか、というと、何らかの分野で大なり小なりの価値をお持ちだと思うんです。
それで「いや、生きる価値あるよ」というのはとても簡単な話なのですが、自分で能力不足だ、評価されない、容姿が悪いとか思いこまれるケースもあるでしょう。
生きる価値がある、というのを伝えるのはとても難しいと思いました。
じゃあなんだろう、何か別な表現はないだろうか、と考えた際にふと浮かんだのが「必要性」でした。
その人が生きている必要性はあるのではないだろうか、と思うのです。
仕事にしても、家庭生活にしても、学校生活にしても、「その人」という存在がいるからこそ成り立つ部分というのがあると思うのです。
仕事であれば、誰でも出来る仕事とか言い出す人がいるけど、やってくれる人は必要なわけで。
家族から色々言われてたりしても、言う相手というのは必要なわけで。
学校にしても、自分の席を埋める人というのは必要なわけで。
ゲームをする人、食事をする人というのは必要なわけで。
じゃあ肝心の「必要の基準」はなんだろうか、と考えた際、とてもシンプルな結論に至りました。
「その人がいなくなって少しでも困る人がいるならば、その人は必要である」
或いは、次の表現でもいいでしょう。
「その人がいなくなって少しでも悲しむ人がいるならば、その人は必要である」
色々思う人はいるでしょうけど、恐らく大多数の人は必要に分類されると思います。
その人が有能だと思い込んでいようが、無能と思い込んでいようが、社長だろうが、無職だろうが、善人はもちろん、罪人でさえも。
それぞれ必要と思う人の大小はあるでしょうけど、そこまで考えるんだったら、それこそ必要と思ってくれる人を増やす努力をすればいいんじゃないですかね。
そんな風に、努力の方向性を決める判断基準程度にはなるんじゃないかと思いました。
なんか特に面白くない話でした。
たまに更新しないとね、というだけの動機だったので、よしとしましょう。
~拍手レス~
>素敵すぎる三連休じゃないですか!一昨年の年末年始休暇がギックリ腰で終わった時の事を思い出しました・・・慣れない連休とるとそんなもんですよ・・・Orz by 助平
ご無沙汰してます! そして返信遅くなってすみません。 連休を取ると体調を崩すのは鉄則ですね(笑)