2009年09月02日
「動物の扱い方」と「道徳的進歩」について考えてみる
とんぼさんの重い話しなんですけど・・・というエントリを拝見。
記事中に出てくる言葉がなんかどっかで聞いたことあるフレーズだなぁ、と思ったら、検索してはいけないシリーズの一つだったんですね。
それで、そのフレーズというのは「パン君 吐血」。
検索結果を張り付けてもいいんですけど、画像検索の結果とか表示されそうな気もするので、苦手な方向けにやめておきます。
普通に検索すればトップに表示されると思いますので、興味がある方はどうぞ。
画像の内容はというと、犬(パン君)がフィラリア(寄生虫)に内臓をやられてしまって、大量吐血しているというものです。
そんなにグロくはないですけど、血とかダメな方はやめといた方がいいかもです。
で、そのパン君はピースハウスという保護施設に匿われたようです。
元の飼い主に虐待を受けていたらしく、その後遺症などもあって、施設入所後2ヶ月で非業の死を迎えたとの事。
可哀想な事例ですが、よくある事でもあるのでしょうね。
こういう施設やサイトに関しても色々と思うところはあるけれど、その辺の判断は各々がすれば良いことでしょう。
とりあえず私はペットを飼った事がないし、飼えるような状況になったこともないし、そもそも飼う事自体がしっくりこないので、無責任な事は言えないです。
気になったのは、こちらのサイトさんの日記のトップに書いてあった「国家の偉大さとその道徳的進歩は、動物の扱い方で知ることができる」というガンジーの言葉。
動物ってそんな単純な存在かなぁ、と疑問に思ってしまう言葉でした。
なにせペットと家畜、競走馬のような経済動物、そして野生の動物、野生は野生でも保護されている動物と様々。
ペットを飼うのに対して様々な価値観があれど、大抵は人間側の自己満足のもと、野生のそれよりも恵まれた環境を得られる。
利用されるまで育てられる家畜・経済動物は、少なくとも生きている間は死の心配も飢えの心配もない。
野生の動物は自由だけれど、様々な不自由と危険が付き纏う。
保護動物はさすがにちょっと別枠ですけど、どんな生き方であれ、メリットデメリットが共存しているわけですね。
どの生き方が動物にとっての幸せか、なんてそれこそ人間側のエゴでしかないと思います。
人間に拘束されるものの、安全に生き続けるペットが不自由で可哀想って言われても、動物がどう思っているか分からないし。
そもそも戦場で生き続ける野生動物の方が自由で幸せかって言われたら、そうじゃない気もしますし。
結局は考えても分からない事なので、とりあえず難しい方向に持っていかないで「無駄に命を奪う事はない」というのが「扱い方」のボーダーとしてみます。
そのボーダーに沿って考えてみると、また一つの矛盾が。
生まれた動物は最終的には死ぬわけですが、究極的には食物連鎖に組み込まれない動物が生み出される事は無駄という事になります。
まあそうすると人間が一番無駄な生き物って話に持っていく人もいるんですけど、食物連鎖の事実上の最頂点だし、一応は自給自足をしているので、別枠で考えます。
そんな風に考えた場合、「ペット用に動物を繁殖する事」が実は一番残念な事、という結論になるのではないかと思います。
もちろん、自分でも極端な結論だなぁ、とは思います。
ペットがいないと生きていけないという方や、ペットに救われた、救われているって方もいるでしょうしね。
要するに何が言いたいかというと、「動物の扱い方」でモラル云々を語るのは難しいんではないかという事。
人間からしたら食用、愛護用、害獣、害鳥などなどの様々且つ、それぞれが相反するカテゴリに分類されている動物に対して、同じように接することなんて不可能。
「無駄な命」に関するボーダーも職業や価値観に応じて異なるわけですしね。
ガンジーさんの言葉に戻って、じゃあ日本の道徳的進歩はどうなの、という話になった場合、「虐待をする人間は程度が低いなぁ」という認識を持つ人間が多い時点で、進んでる方だと思います。
と、長々と書いたものを読み直して思ったのですが、なるほど「無駄に命を奪う事は無い」っていうのは、道徳的進歩だけではなく、色んなものの指標になるのかも。
要は、様々なカテゴリの動物に対し、それぞれに適したアプローチをすれば良い、という事。
人間は動物に対して大きく分けて、生かす、殺す、関与しないの三つのアプローチがあるとします。
例えば愛玩動物に対しては積極的に生かすというアプローチになると思います。
そして、そういう用途なのだから、虐待向けに、つまりは殺すために生産する必要はなく、あくまで必要最小限だけ用意すれば良いという見方が出来ます。
食用の家畜の場合、国民が消費する分だけ用意すれば良く、無駄死にする家畜を減らせば良いという見方が出来ます。
野生動物の場合、駆除が必要であれば止むをえませんが、そうでない場合は無駄に構う必要はなく、放置していればいいと思います。
これについては、駆除が必要な理由で、道徳的進歩を問えられるという見方もアリでしょう。
絶滅の危機に瀕している野生動物があった場合、それが自然淘汰であれば止むなし、人間が理由であれば保護すべきというのもあるかな。
経済動物は微妙ではありますが、それが経済活動の一端を担っている以上、資本主義では存在を否定できません。
人間の娯楽に使われるというのは、ベクトルとしては愛玩動物と近いものでもありますし、生まれた以上はきちんと管理・育成し、生命を全うさせるべきでしょう。
事故による死はともかく、死を前提とした娯楽であれば、それは道徳的進歩の観点では非常に問題があると言えるでしょうしね。
なるほど、こう考えると納得させられる格言です。
偉人さんの言葉というのは実によく考えられているものだし、考えさせられるものです。
言葉の真意が異なる可能性はあっても、考えさせられる、というのは素敵な事だと思います。
記事中に出てくる言葉がなんかどっかで聞いたことあるフレーズだなぁ、と思ったら、検索してはいけないシリーズの一つだったんですね。
それで、そのフレーズというのは「パン君 吐血」。
検索結果を張り付けてもいいんですけど、画像検索の結果とか表示されそうな気もするので、苦手な方向けにやめておきます。
普通に検索すればトップに表示されると思いますので、興味がある方はどうぞ。
画像の内容はというと、犬(パン君)がフィラリア(寄生虫)に内臓をやられてしまって、大量吐血しているというものです。
そんなにグロくはないですけど、血とかダメな方はやめといた方がいいかもです。
で、そのパン君はピースハウスという保護施設に匿われたようです。
元の飼い主に虐待を受けていたらしく、その後遺症などもあって、施設入所後2ヶ月で非業の死を迎えたとの事。
可哀想な事例ですが、よくある事でもあるのでしょうね。
こういう施設やサイトに関しても色々と思うところはあるけれど、その辺の判断は各々がすれば良いことでしょう。
とりあえず私はペットを飼った事がないし、飼えるような状況になったこともないし、そもそも飼う事自体がしっくりこないので、無責任な事は言えないです。
気になったのは、こちらのサイトさんの日記のトップに書いてあった「国家の偉大さとその道徳的進歩は、動物の扱い方で知ることができる」というガンジーの言葉。
動物ってそんな単純な存在かなぁ、と疑問に思ってしまう言葉でした。
なにせペットと家畜、競走馬のような経済動物、そして野生の動物、野生は野生でも保護されている動物と様々。
ペットを飼うのに対して様々な価値観があれど、大抵は人間側の自己満足のもと、野生のそれよりも恵まれた環境を得られる。
利用されるまで育てられる家畜・経済動物は、少なくとも生きている間は死の心配も飢えの心配もない。
野生の動物は自由だけれど、様々な不自由と危険が付き纏う。
保護動物はさすがにちょっと別枠ですけど、どんな生き方であれ、メリットデメリットが共存しているわけですね。
どの生き方が動物にとっての幸せか、なんてそれこそ人間側のエゴでしかないと思います。
人間に拘束されるものの、安全に生き続けるペットが不自由で可哀想って言われても、動物がどう思っているか分からないし。
そもそも戦場で生き続ける野生動物の方が自由で幸せかって言われたら、そうじゃない気もしますし。
結局は考えても分からない事なので、とりあえず難しい方向に持っていかないで「無駄に命を奪う事はない」というのが「扱い方」のボーダーとしてみます。
そのボーダーに沿って考えてみると、また一つの矛盾が。
生まれた動物は最終的には死ぬわけですが、究極的には食物連鎖に組み込まれない動物が生み出される事は無駄という事になります。
まあそうすると人間が一番無駄な生き物って話に持っていく人もいるんですけど、食物連鎖の事実上の最頂点だし、一応は自給自足をしているので、別枠で考えます。
そんな風に考えた場合、「ペット用に動物を繁殖する事」が実は一番残念な事、という結論になるのではないかと思います。
もちろん、自分でも極端な結論だなぁ、とは思います。
ペットがいないと生きていけないという方や、ペットに救われた、救われているって方もいるでしょうしね。
要するに何が言いたいかというと、「動物の扱い方」でモラル云々を語るのは難しいんではないかという事。
人間からしたら食用、愛護用、害獣、害鳥などなどの様々且つ、それぞれが相反するカテゴリに分類されている動物に対して、同じように接することなんて不可能。
「無駄な命」に関するボーダーも職業や価値観に応じて異なるわけですしね。
ガンジーさんの言葉に戻って、じゃあ日本の道徳的進歩はどうなの、という話になった場合、「虐待をする人間は程度が低いなぁ」という認識を持つ人間が多い時点で、進んでる方だと思います。
と、長々と書いたものを読み直して思ったのですが、なるほど「無駄に命を奪う事は無い」っていうのは、道徳的進歩だけではなく、色んなものの指標になるのかも。
要は、様々なカテゴリの動物に対し、それぞれに適したアプローチをすれば良い、という事。
人間は動物に対して大きく分けて、生かす、殺す、関与しないの三つのアプローチがあるとします。
例えば愛玩動物に対しては積極的に生かすというアプローチになると思います。
そして、そういう用途なのだから、虐待向けに、つまりは殺すために生産する必要はなく、あくまで必要最小限だけ用意すれば良いという見方が出来ます。
食用の家畜の場合、国民が消費する分だけ用意すれば良く、無駄死にする家畜を減らせば良いという見方が出来ます。
野生動物の場合、駆除が必要であれば止むをえませんが、そうでない場合は無駄に構う必要はなく、放置していればいいと思います。
これについては、駆除が必要な理由で、道徳的進歩を問えられるという見方もアリでしょう。
絶滅の危機に瀕している野生動物があった場合、それが自然淘汰であれば止むなし、人間が理由であれば保護すべきというのもあるかな。
経済動物は微妙ではありますが、それが経済活動の一端を担っている以上、資本主義では存在を否定できません。
人間の娯楽に使われるというのは、ベクトルとしては愛玩動物と近いものでもありますし、生まれた以上はきちんと管理・育成し、生命を全うさせるべきでしょう。
事故による死はともかく、死を前提とした娯楽であれば、それは道徳的進歩の観点では非常に問題があると言えるでしょうしね。
なるほど、こう考えると納得させられる格言です。
偉人さんの言葉というのは実によく考えられているものだし、考えさせられるものです。
言葉の真意が異なる可能性はあっても、考えさせられる、というのは素敵な事だと思います。